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天皇陛下、皇后陛下 御尊影(平成25年一般参賀)
君が代
奉 祝
皇紀2673年
浦安国 紀元節
皇尊 彌榮 彌榮 彌榮
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皇祖 伊勢神宮御正宮(ごしょうぐう)
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建国の地橿原の宮 橿原神宮 外拝殿
橿原宮跡とは?
橿原宮畝傍山の東南にある。葛上郡と高市の境で、神武天皇が始めて本朝の国土を治めて宮都をここに造られた場所で建国の地です。
橿原宮畝傍山の東南にある。葛上郡と高市の境で、神武天皇が始めて本朝の国土を治めて宮都をここに造られた場所で建国の地です。
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神武天皇畝傍山東北御陵
我國は世界最長、万世一系、畏くも天皇陛下を戴き、仰ぐ世界最古の國です。
本日は、紀元節です。
建国の理念を今一度胸に刻み、お祝いしましょう。
【神武天皇・皇都經營の詔・紀・紀元前二年三月】橿原奠都・八紘一宇の詔。
我れ東に征きしより、茲に六年になりぬ。皇天(あまつかみ)の威を頼(かゝぶ)りて、凶徒(あだども)就戮(ころ)されぬ。邊りの土、未だ清まらず。餘(のこ)りの妖ひ、尚ほ梗(あれ)たりと雖も、中洲之地(なかつくに)、復た風塵(さわぎ)無し。誠に宜しく皇都を恢(ひろ)め廓(ひら)き、大壯(みあらか)を規り摸(つく)るべし。而るに今、運(とき)、此の屯(わか)く蒙きに屬ひ、民(おほみたから)の心朴素(すなほ)なり。巣に棲み穴に住む習俗(しわざ)、惟れ常となれり。
夫れ大人(ひじり)の制(のり)を立つる、義(ことわり)、必ず時に隨ふ。苟くも民に利(さち)有らば、何にぞ、聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。且た當に山林を披き拂ひ、宮室を經營(をさめつく)りて、恭みて寶位(たかみくら)に臨み、以て元元(おほみたから)を鎭め、上は則ち乾靈(あまつかみ)の國を授けたまひし徳(うつくしび)に答へ、下は則ち皇孫の正(たゞしきみち)を養ひたまひし心を弘むべし。然て後に六合(くにのうち)を兼ねてを開き、八紘(あめのした)を掩ひて宇(いへ)と爲むこと、亦た可からずや。夫の畝傍山の東南(たつみのすみ)橿原の地を觀れば、蓋し國の墺區(もなか)か。治之(みやこつく)るべし。
※現代語訳
『東征についてから6年になった。天津神の威勢のお蔭で凶徒は退治された。しかし周辺の地はまだ治まらない。残りの災いはなお根強いが、内州の地は騒ぐものもない。皇都(みやこ)を開き広めて御殿を造営しよう。今世の中はまだ開けていないが、民の心は素直である。人々は巣に棲んだり穴に住んだりして、未開の慣わしが変わらずにある。そもそも大人(聖人)が制(のり)を立てて、道理が正しく行われる。人々の利益となるならば、どんな事でも聖(ひじり)の行う業(わざ)として間違いはない。まさに山林を開き払い、宮室を造って謹んで尊い位につき、人々を安ずべきである。上は天津神の国をお授け下さった御徳に応え、下は皇孫の正義を育てられた心を広めよう。その後国中を一つにして都を開き、天の下を覆いて一つの家とする事は、また良い事ではないか。見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の真中である。ここに都を造るべきである。』
「日本書紀」のの神武天皇の条に「安国」の文字が見えます。「昔伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、此の国を目(なづ)けて曰(いわ)く、日本は浦安国(うらやすくに)、細(くはし)戈千足国(ほこちたるくに)、磯輪上秀真国(しわかみのほつまくに)」とあります。「浦安国」の「うら」は心を意味し、「安国」は安らかに治まる国、泰平の国の意味であり、『延喜式祝詞』の「祈念祭」には、「四方(よも)の国を安国と平らけく」とある。国の内外の平和を祈る言葉として、「安国」が使われています。
「浦安国」とは、古の日本を意味します。神祇の安寧慰撫と国の平穏無事が「浦安の舞」に込められています。
2月11日は宮城(皇居)・橿原神宮・神宮を遥拝し、国旗を掲げて祝いましょう。
橿原神宮 奈良県橿原市久米町。 旧官幣大社(現、別表神社)。祭神は神武天皇。同皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の二柱。明治八年(一八七五)奈良県は教部省に対し、神武天皇即位の地である畝火山東南の橿原宮の旧地に神宮創建の請願に及び、同二一年橿原宮の旧跡の考証成り、同二二年仰せ出された。明治天皇は、社殿として京都御所の内侍所及び神嘉殿を奉献され、同二三年橿原神宮の宮号を宣下し御鎮座。時あたかも神武天皇即位紀元二五五〇年に当たる。その後、昭和一五年紀元二六〇〇年記念事業として境内地、社殿及び付属建物が整備拡充され、雄大かつ荘厳な現在の規模に改められた。例祭は二月一一日の紀元祭で、勅使の参向がある。