靖国神社
最近筆者は、靖国神社、神社、武士道に関する記事を書かせていただいています。
我国の習俗であり、文化、精神の継承の根幹であるからです。「魂」の存在があり、その「魂」に恥じぬ行いをしてきたのが日本人だからです。
日本人にとって、「死ぬ」ということは、仏教で説いているように、十万億土(おくど)のかなたに消え去っていくということではなく、死後人はやがて祖霊(それい)となり、さらに祖先神(そせんしん)へと昂(たかま)っていき、この世の子孫の生活を見守っていて下さると考えてきました。
「祖先の神があってこそ生まれ出た自分、その自分もやがては祖先の神のもとへと帰っていくのだ。」というのが、日本人の昔からの考えかたです。
また、四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ってきたのが「やまと民族」の魂です。
昨今の天変地異は現世の我々に対しての、神々の怒り、警鐘であると筆者は思います。
大東亜戦争以前にも、一部の国民には邪悪な思想にとりつかれた愚かな者たちがいましたが、総じて日本国民は、神々を崇敬し、皇室を敬い、同胞をいたわる民族でした。
大東亜戦争で亡くなられた方々も66年が経ち、故人を直接知る人も少しづつ減ってきています。地方によって「弔い上げ」の風習が違いますが、総じて「弔い上げ」を終えると、死者の供養は仏教的要素を離れ、それまで死者その人の霊として個性を持っていた霊は、「先祖の霊」という単一の存在に合一される。これが祖霊です。祖霊は、清められた先祖の霊として、家の屋敷内や近くの山などに祀られ、その家を守護し、国を護り、繁栄をもたらす神として敬われるのである。前述の通り、先祖の霊を「ホトケ様」「カミ様」「ご先祖様」と呼ぶことにはこのような意味があるのです。
大東亜戦争で亡くなられた方々も66年が経ち、故人を直接知る人も少しづつ減ってきています。地方によって「弔い上げ」の風習が違いますが、総じて「弔い上げ」を終えると、死者の供養は仏教的要素を離れ、それまで死者その人の霊として個性を持っていた霊は、「先祖の霊」という単一の存在に合一される。これが祖霊です。祖霊は、清められた先祖の霊として、家の屋敷内や近くの山などに祀られ、その家を守護し、国を護り、繁栄をもたらす神として敬われるのである。前述の通り、先祖の霊を「ホトケ様」「カミ様」「ご先祖様」と呼ぶことにはこのような意味があるのです。
しかし、靖国の英霊に対し、誠の「弔い上げ」ができているのでしょうか?
自国の歴史を侮蔑(ぶべつ)し、他を責めることによって、自己の保身に汲汲(きゅうきゅう)たる日本人が如何に多かったか・・・
失敗を誇張し、他を責めた本人は生きていて、場合によっては金儲けに走っている。大東亜戦争で亡くなられた方々は、二百五、六十万人になります。
彼らは皆、祖国を信じ、悔いなく亡くなられた。自己の命を捧げて悔いなきものをもつことこそ、悲しいことですが、生の最高の充実です。
それに石を投げるような安易な利己主義者は恥ずべきです。
それらは、今尚変わってはいません。
平成13年8月13日に小泉首相が就任以来はじめて行った靖国神社参拝に対して、日本人・韓国人639名の原告が首相の参拝の違憲確認・差し止め、原告の宗教的人格権の侵害への損害賠償を求めました。
あろうことか靖国神社も被告になりました。畏れを知らぬ愚行です。
これに対して、首相の参拝を支持する人々が裁判補助参加制度を利用して、靖国神社側の弁明を行おうとし、岩井益子氏(当時84歳)の陳述書提出もその一貫でありました。
岩井氏は新婚1年半で出征した最愛の夫をルソン島での激戦で亡くした。終戦後、夫の死亡認定を受取り、唯泣き続けたととのことです。
その陳述書の「裁判について」で次のように述べてられています。
また、岩井氏は、「先の戦争に対する考え方はいろいろあるでしょう。しかし、お国のために尊い命を捧げられた方々の御霊を偲んで慰霊することは日本人として当然のことだと思っています。それは、あの戦争の意味を問う以前のことです」
「私は、原告の方々も靖国神社に参拝すべきだといっているのではありません。韓国の大統領に参拝をお願いしているわけでもありません。日本の総理大臣が、英霊との約束を守り、靖国神社に参拝するのは当然だと言っているのです。このままではもの言えぬ英霊があまりにも可哀想です」と、日本人の矜持を述べられています。
「大阪アジア靖国訴訟」で戦われた、徳永信一弁護士は靖国訴訟についての根っこを活動報告で次のように述べられています。(一部抜粋)
東日本大震災でも多くの同胞が犠牲になりました。
平成13年8月13日に小泉首相が就任以来はじめて行った靖国神社参拝に対して、日本人・韓国人639名の原告が首相の参拝の違憲確認・差し止め、原告の宗教的人格権の侵害への損害賠償を求めました。
あろうことか靖国神社も被告になりました。畏れを知らぬ愚行です。
これに対して、首相の参拝を支持する人々が裁判補助参加制度を利用して、靖国神社側の弁明を行おうとし、岩井益子氏(当時84歳)の陳述書提出もその一貫でありました。
岩井氏は新婚1年半で出征した最愛の夫をルソン島での激戦で亡くした。終戦後、夫の死亡認定を受取り、唯泣き続けたととのことです。
その陳述書の「裁判について」で次のように述べてられています。
さて、今回、首相が靖国神社に昨年8月13日に参拝された事を不服とする方々が、全国で裁判を起こされているようです。とりわけ、ここ大阪におきましては、あろう事か、靖国神社までもが被告とされています。私ども遺族といたしましてはこのような原告の方々の主張はとても放っておけるものではありません。私のような靖国の妻をはじめ、ほとんど全ての遺族の怒りと、血涙を絞らしめるものです。
もし、首相が靖国神社に参拝されたことで心が傷つけられると言う方がおられるのならば、靖国の妻といたしましては、靖国神社が国家護持されず、外国の意向に気兼ねして首相の参拝すら思うにまかせず、天皇陛下の御親拝も得られない現状はその何万倍、何億倍の心が傷つくことでございます。私にとって夫が生前、戦死すれば必ずそこに祀られると信じて死地に赴いたその靖国神社を汚されることは、私自身を汚されることの何億倍の屈辱です。愛する夫のためにも絶対に許すことの出来ない出来事です。靖国神社を汚すくらいなら私自身を百万回殺してください。たった一言靖国神社を罵倒する言葉を聞くだけで、私自身の身が切り裂かれ、全身の血が逆流してあふれだし、それが見渡す限り、戦士達の血の海となって広がって行くのが見えるようです。
この陳情書が公判で読み上げられたときには、法廷全体が息を呑んだように静まり返ったといいます。
また、岩井氏は、「先の戦争に対する考え方はいろいろあるでしょう。しかし、お国のために尊い命を捧げられた方々の御霊を偲んで慰霊することは日本人として当然のことだと思っています。それは、あの戦争の意味を問う以前のことです」
「私は、原告の方々も靖国神社に参拝すべきだといっているのではありません。韓国の大統領に参拝をお願いしているわけでもありません。日本の総理大臣が、英霊との約束を守り、靖国神社に参拝するのは当然だと言っているのです。このままではもの言えぬ英霊があまりにも可哀想です」と、日本人の矜持を述べられています。
「大阪アジア靖国訴訟」で戦われた、徳永信一弁護士は靖国訴訟についての根っこを活動報告で次のように述べられています。(一部抜粋)
小泉首相の靖国参拝を非難し阻止するための政治的手段として裁判を利用し、その話題性を得るためにインターネットで原告を募集し、在韓の韓国人遺族119名を原告に配し、被告に靖国神社を加えたのである。靖国神社に対する請求は小泉純一郎が「内閣総理大臣として靖国神社に参拝するのを受入れてはならない」というものであり、靖国神社の宗教的活動も認めない目茶苦茶である。政治的パフォーマンスなら、それらしく堂々と公共の場、あるいは政治的舞台で行えばよい。応訴を拒否できないことをいいことに、靖国神社を法廷に引っ張りだし、一方的な誹謗を浴びせて貶めるとは何事か!
靖国応援団として闘う中で痛感したことは、靖国神社に息づく歴史や伝統に対し、軍国主義や国家神道というステレオタイプなレッテルを貼ることに執心する原告たちのイデオロギッシュで原理主義的な独善であった。原告に名を連ねたのは反天皇を掲げるキリスト教諸派、神社神道を敵視する浄土真宗左派、宗教を否定する積極的無神論者、反日的な在韓・在日韓国人・・・。彼らの主張が多数の宗教・宗派を共存させてきた日本の伝統に合致するとは思えないし、多様な信教の自由を保障するものとも思えない。政教分離が信教の自由の保障を目的とするものであるならば、彼らの独善的偏狭さは、信教の自由に反するように思える。多神教的なアミニズムと神仏習合にみる多重信仰、言挙げせず教義にこだわらない寛容さを特徴とする日本の宗教文化は、民族と宗教の衝突が激化する21世紀にあっては、もっと見直される必要があるはずだ。
東日本大震災でも多くの同胞が犠牲になりました。
亡くなられた方々の思いもよそに進まぬ被災地の復興。
靖国訴訟も根っこは同じです。
靖国訴訟も根っこは同じです。
日本人は死者との約束は必ず守る民族でした。
これは肉体は滅びても、「魂」は存在しているという考えかたが古来よりあったからです。
日本人は古来より、罪、穢(けが)れを嫌い、清浄(せいじょう=清らかな状態)を尊いものとしてきました。心に一点の曇りもないことをいいます。
これが日本人の魂なのです。
嘘、偽りが横行する今日、いつまで、こころない人々は護国の神々に石を投げ続けるのでしょうか?
死者との約束を守れぬ日本人は、日本人とは言えません。
護国の神々こそ、武士であり、日本人の魂なのですから・・・
死者との約束を守れぬ日本人は、日本人とは言えません。
護国の神々こそ、武士であり、日本人の魂なのですから・・・