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Channel: 電脳工廠・兵器(武器,弾薬)庫
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[転載]ネルー首相は愛国者・頭山満翁に感謝した

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昭和4年 金婚式での頭山翁夫妻



江戸、明治、大正、昭和激動の時代駆け抜けた頭山満(とうやま みつる)翁は、わが国の近代・現代史に数々の足跡を残した人物でありながら、一般にはあまり知られることがありません。その理由は、翁が枠に収まり切らない人であったからであり、表舞台に立つことなく自由に振る舞う故翁には謎めいた印象がつきまとい、「右翼の大物」「影の実力者」等と呼ばれたりもするが、もちろんそれは頭山満の正当な姿を伝えるものではなく、翁の呼称をあえて求めるなら、頭山満は一人の人間であり、日本人であった。翁への誤解を一掃し、是は是、非は非としてありのままの人物像を見つめることは、歴史への理解を深めるばかりでなく、未来の日本と日本人像、「アジア」に厳然とした足跡を残して、従容と天に帰っていった1人のサムライを、平成のこの時代に忘れてはならないと強く筆者は思うのです

翁の足跡は到底この拙記事の文中に収まりきれるものではありません。
翁の偉大さの一端をご紹介できればと思う次第です。
極東軍事裁判においてインド側主席弁護人だったデサイ博士は、次のように述べましました。
 「インドはまもなく独立します。その切っ掛けを与えてくれたのは日本です。インドの独立は、日本のお陰で30年早まりました。これはインドのみならず、ビルマ、インドネシア、ベトナムをはじめとするアジア諸民族共通のことです。インド4億人の民は、これに深く感銘しています。インド国民は、日本の復興にあらゆる協力を惜しまないつもりです。その他の東南アジア諸民族も同じだと思います」
 
戦後、インドの人々は、連合国が日本を裁いた極東軍事裁判において、アジアの一員として、日本の立場を理解し独立インドの首相となったネルーは、東京裁判のインド代表判事にパール博士を任命しました。パール博士は、東京裁判の矛盾を突き、日本の戦犯全員の無罪を判決しました。
 インド政府のチョプラ教育相事務次官は「パール博士の判決は、当時も今もインド政府の立場を語っています。我々はパール博士の判決を支持しています」と語っています。
 今日、パール博士の所説は欧米の多くの国際法学者たちにも支持され、極東裁判の誤りが認められています。
 ネルー首相は戦後間もなく来日し、インドの独立に協力した日本人に感謝を表わしました。その一人が、頭山満でした。昭和19年10月5日に89歳で亡くなっていたので、ネルーは代わりに黒竜会代表の葛生能久氏に謝意を表しました。
 頭山満翁こそ戦前の日本において、国家社会のために生きる在野の巨人として、広く国民的敬愛を受けた人物です。の名は玄洋社とともに記憶されていますが、明治以来、日本国民の名誉や自尊心にかかわる事件には、つねにの姿があったので
 をはじめとする人々は「大アジア主義者」と呼ばれ、脱亜論を唱えた福澤諭吉翁とは対極をなす存在でした。
明治時代からアジアの解放のために努力しました。 らは、支那、インド等のアジア諸国の独立運動家を、命懸けで支援した真の国際人でした。は犬養毅(元首相)と親しく、両者は一心同体となって、日本とアジアのために尽くしたのです
 頭山翁は、東京・赤坂霊南坂にあった家の隣家に、「革命いまだ成らず。同志すべからず努力すべし」のい言葉を残し支那の建国の父と呼ばれ、日本に亡命していた革命の父・孫文をかくまったことがあります。孫文は、その家で4年間ほどすごし、宋慶齢との結婚式も挙げました。その間の生活費も頭山翁が世話をしました。



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昭和2年 蒋介石と頭山翁


 頭山翁は、またインド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースらが英国政府から追われていたときには、官憲の手から身柄を守り、新宿の中村屋にかくまいました。ボースは中村屋の長女・相馬俊子と愛し合い、日本に帰化して頭山の媒酌で結婚し、祖国独立のために力を尽くしました。彼が伝えた中村屋のインド式カレーは有名ですが、その陰には、頭山翁という真に国際的な精神を持った愛国者がいたのです。ネルー首相は、こうしたインドに対する頭山翁の支援に感謝したのです。
 竜馬・海舟・西郷の息吹を受け東洋のルソーと呼ばれた自由民権運動家、中江兆民は、頭山翁を大人物と認め、大いに期待し親交を結びました。
中江氏は頭山満翁のことを「一年有半」という著書の中で、
「頭山満君、大人長者の風あり、かつ今の世、古の武士道を存して全き者は、独り君有るのみ、君言わずしてしかし知れり、けだし機知を朴実に寓する者といふべし」
と評しています。

その頭山翁は、維新の英雄・西郷隆盛翁を深く尊敬していました。
「萩の乱」への関与によって捕らえられることも、翌年に、尊敬していた西郷隆盛翁の決起を獄中で知ることもなく、皮肉にも、西郷隆盛翁が城山で自決したその翌日に、頭山らは釈放されたのです。
「西南戦争」への、福岡藩士500名の決起(福岡の変)に馳せ参じることが出来なかったことが、地団駄を踏んだ頭山らにエネルギーを与え、玄洋社を生み出す原点になるのです。
24歳になった頭山翁は、突然、薩摩の西郷家を訪ねています
「西郷先生に会いに来ました」と頭山
「西郷はもうなくなったよ」と応対した家人。
「いえ!西郷先生の身体は死んでもその精神は死にません。
私は西郷先生の精神に会いに来たのです」
と、頭山青年は答えたと家人によって記録されており、西郷隆盛への思慕の念を髣髴とさせています。

頭山翁は「ただ一心の天に通ずるものあらば、布衣といへども決して王者に劣るものはない」と語ったと伝えられます。大西郷に似て、地位や名誉や金銭を求めず、ひたすら日本とアジアのために尽くしたらしい言葉です。
 「頭山翁の偉大なる人格の至極の根源は、実に翁の『天に通ずる心』に求めねばならぬ。……唯だ『一心天に通ずる』生涯が頭山翁の生涯であり、それは大西郷が常に『天を相手』に生きたのと同じく、真実の日本人に共通なる宗教的境地である」と、大川周明博士は、書いています。そして、頭山翁を「真個の日本人」と呼んでいます。
 インドが生んだ偉大な詩人タゴールは、大正13年に来日した際、頭山翁と会談しました。タゴールは、頭山翁について、「インド古代の聖者を目のあたりに見る感じである」と語っています。
支那の蒋介石との和平工作も、東久邇宮が頭山満翁を頼みとして企図されたのです。
 しかし、大東亜戦争の後、アジア諸民族は白人種の支配から独立できました。アジアの解放は、それに協力した日本人がいたから実現できたのだと考える人々が、今日もアジアの国々には、多々いるのです。

翁の呼称をあえて求めるなら、頭山満翁は一人の人間であり、日本人でした。翁への誤解を一掃し、是は是、非は非としてありのままの人物像を見つめることは、歴史への理解を深めるばかりでなく、未来の日本と日本人像を探る上での大いなる一助となると筆者は思うのです。

転載元: 美し国(うましくに)


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