道の両側から国旗が掲げられ、風に揺れる様は壮観=大阪府東大阪市松原1丁目
産経ニュースに素晴らしい街が紹介されていました。
以下に全文引用します。
祝日になると日の丸がそこかしこに翻る町がある。自治会世帯数の約3分の1にあたる150軒近くが軒先に一斉に国旗を掲げる風景は、現代の日本では珍しい。年配の人は懐かしく、若い人には新鮮かもしれないが、休日の静かな住宅街でこの光景を目にすると、何か清々しい気持ちになるから不思議だ。
ラグビーの聖地、近鉄花園ラグビー場に近い大阪府東大阪市内の閑静な住宅街に、国旗の翻る町がある。世帯数約450軒の松原自治会(菱田照雄会長)だ。祝祭日にこの町内を歩くと、道路の両側からまるでアーチをかけたように風にたなびく旗の波が目に飛び込む。百メートル以上続く日の丸の道は壮観である。
「150軒ぐらいですかね、国旗を掲げている家は」。自治会の菱田会長によれば、この町の風景が変わったのは、一年ちょっと前のことだ。松原地区は江戸時代、大坂から大和・伊勢を結ぶ街道が通る宿場町で、一部に歴史の面影が残る。ただ、今では新住民が半分以上を占め、ごく普通の戸建てが並ぶ住宅街である。それが一昨年の11月3日(文化の日)を境に自治会で国旗掲揚の動きが始まり、その後祝祭日には同じ光景がみられるようになった。
きっかけは、自治会から東に約3キロ離れた枚岡(ひらおか)神社の中東弘宮司が、「祝日に国旗を掲げよう」と呼びかけたことに始まる。東日本大震災に心を痛めた宮司は、国民がこの悲劇を乗り越えるには日本人の絆を象徴する国旗を掲げて団結すべきだと考えた。諸外国では当たり前の発想だ。氏子総代のひとりで農業を営む自治会の松原功典さんがこれに呼応し、町内で賛同する人を募った。
松原さんは「みなでやろうと話すと、『それはいい。昔はどこの家でも日の丸を揚げたものだ』と賛成してくれた」という。しかし、中には「これは強制か?」と聞く住民もいて、賛同する人ばかりではない。菱田会長は「こういう時代ですから、自治会活動というのではない。神社の氏子として賛同者が集まったということ」と語る。町内の掲示板には、空き缶回収のお知らせや祭りの報告書と並び、「国旗ご入用の方はお電話ください 松原」の張り紙も見える。
全世帯とはいかないが、戦後70年近く経った平成の世に、3分の1もの世帯が国旗掲揚の呼びかけに応じるのは並大抵ではない。平成7年1月に起きた阪神・淡路大震災の際には、こうした動きは起こらなかったという。今回はタイミングよく震災復興に絡めて呼びかけた人の存在や、伝統や文化の背景をもつ地域特性に加え、近年日本の周辺で騒がしくなった安全保障問題も影響していそうだ。だが、「みなで始めてしまうと違和感がない」というのが案外大きかったかもしれない。これほど祝日に国旗が揚がらない国では、だれも最初の一人で始めることに勇気がいる。町内で一斉に始めようというのは、心理的な壁を越えやすい。
だが、物理的な問題もある。そもそも国旗を所有する家が少なく、どこで買えばいいかもわからない。さらに、昭和40年代はまだ一般的だった祝日の国旗掲揚も、現在の戸建て住宅では掲揚用の金具を外壁や門柱などに取り付けにくくなった。「旗を揚げたくても、やり方がわからんという声もあった」(松原さん)。町内を見回るとコンクリート外壁に直接金具を固定したり、アルミフェンスに結びつけたり、家の外に空の飲料ケースを重ねて旗ざおを突っ込んだりと、苦労の跡がみえる。松原地区は戸建て中心の町並みだが、アパートなどの集合住宅ではより困難なのは明らかだ。それでも賛同者が増えている現状をみると、心理面や物理面の障害は乗り越えつつあるようだ。
「正月には旗を揚げる家が増えていた。次の建国記念日が楽しみ」。松原さんは日の丸の掲揚が町に定着してきたことを喜ぶ。1月27日は国旗制定記念日。
道の両側から国旗が掲げられ、風に揺れる様は壮観=大阪府東大阪市松原1丁目
筆者らが子供の頃はどこの家庭にも国旗が翻っていました。
すべてにおいて可笑しくなってしまった日本。
この当たり前の風景に日本全体が戻りますよう願ってやまないのです。