過去三回あった皇統断絶の危機
問題になるのが、残りの三例である。この三例は、皇統の危機であり、万世一系の
危機であった。いずれも天皇に息子がいない上、近親に一人も男系男子がいなかった
。
皇統の危機を先人たちはどのように切り抜けたのだろうか。
三例のうち一番古い例は第二十六代継体天皇、次が第一〇二代後花園天皇の例である
三例のうち一番古い例は第二十六代継体天皇、次が第一〇二代後花園天皇の例である
。まずこの二例について説明する。
天皇家始まって以来の皇統の危機を繋いだのは継体天皇だった。継体天皇は先代の
武烈天皇から見ると十親等の隔たりがあり、「祖父同士がはとこ」という関係に
武烈天皇から見ると十親等の隔たりがあり、「祖父同士がはとこ」という関係に
当たる。現在の日常生活では従兄弟ですら疎遠になりがちで、はとことなると一度も
会ったことがない場合が多いのではないだろうか。
しかも「祖父同士がはとこ」とはもはや他人と呼んでも差し支えないほどの遠縁で
ある。武烈天皇には皇子がおらず、男の兄弟もいなかった。武烈天皇が崩御して
天皇の後継問題が深刻化し、しばらく空位が続いた後に
三顧の礼で迎えられた男大迹王(おおどのおおきみ)が即位して継体天皇となった
と伝えられている。継体天皇は応神天皇の男系の五世孫、つまり玄孫の子に当たる
ため、男系継承が守られたことになる。
だがこの時期に王朝の交代があったのではないかという説も存在している。しかし
、それは応神天皇の五世孫であるという継体天皇の出自に疑いを示しているのみで
、立証に至っていない、それどころか、継体天皇は仁賢(にんけん)天皇(武烈天皇
の父)皇女の手白香皇女(たしらかのひめみこ)と結婚し、皇后としている。
しかも仁賢天皇の他の皇女である、春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)、
橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)も、それぞれ安閑(あんかん)天皇
橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)も、それぞれ安閑(あんかん)天皇
(継体天皇の第一皇子)、宣化(せんか)天皇(継体天皇の第二皇子)の
皇后となつている。
したがって武烈天皇までの王朝と継体天皇からの王朝が別のものであると考える
のは不自然であろう。よって、継体天皇の即位は血筋の違う地方豪族が武力に
よって皇位を簒奪(さんだつ)したものではなく、祖先を同じくするふたつの
皇統が、この婚姻によって再統合したと考えるべきである。私はこの時期に王朝
交代はなかったとの通説は自然なものだと思う。
伏見宮家から即位
時代を下ること900年、室町時代の天皇家に二度目の皇統断絶の危機が訪れた。
伏見宮家から即位
時代を下ること900年、室町時代の天皇家に二度目の皇統断絶の危機が訪れた。
このときに皇統を繋いだのが後花園(ごはなぞの)天皇だつた。後花園天皇も
先代の称光(しようこう)天皇から十親等の遠縁にあたる。皇子のなかった
称光天皇が崩ずると父帝の後小松(ごこうまつ)上皇が伏見宮貞成(ふしみの
みやさだふさ)親王の第一皇子彦仁(ひこひと)を御所に迎え入れ、践祚させた。
このときは皇統を巡り南朝と北朝で争いがあった時期であり、空位はなんとしても
避けなければならないという切羽詰った事情があつたようだ。
後花園天皇は北朝第三代崇光天皇の男系の曾孫に当たるため、ここでもやはり
皇位が全く別の家に渡ったわけではない。そもそも伏見宮自体が皇統を安定
させるために創設された経緯もあり、また、もともと伏見宮家は、持明院統の
正嫡の家柄であった。
皇位継承とは血のリレーであり、宮家とは血のリレーの伴走者であるとは評論家
の大宅壮一の残した言葉であり、後花園蚕が皇統を繋いだことで、伏見宮は
血のリレーの伴走者の役をよく果たしたことになる。
続く
竹田 恒泰 著 「皇族たちの真実」より
注:今再び女性宮家なるおかしな話が出てきたが、皇室の事は皇室に任せるのが
良いと思う。正しい歴史認識もなく、それ以上に2000年続いている本当の
皇室の正しい歴史も知らない、者がとやかく言うものではない。
「解(わか)らんもん(者)と知(し)らんもん(者)が話して何もわからん」