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日清戦争で広島に大本営を定める 明治天皇
明治天皇のご幼称は祐宮(さちのみや)といい、女官にチヤホヤ育てられたためか、我がままで、しかも非常に腕白であったため、取り巻きを全部男性にしたのです。その中に西郷隆盛や山岡鉄舟という豪傑がいました。
彼ら“豪傑”は腕白な祐宮睦仁親王には一切加減しませんでした。相撲をとっても手心を加えずに全力で負かしてしまうのです。すると負けん気の強い祐宮睦仁親王は立ち上がられてまた挑む、を繰り返しながら心身共に鍛え上げられました。世の中には自分より強力なものがいることを徹底的に教えられ、だんだんと自らの力量を自覚して、さらに修養を積んでいかれたのです。
明治天皇は明治元年3月14日に『五箇条の御誓文』を示されました。
そこには「朕躬をもって衆に先んじ」とあります。これは明治天皇がこの五箇条を国民に手本となるように自ら先に実践すると仰られたのです。
また、明治23年10月30日に渙発された『教育勅語』にも「朕爾臣民と俱に、拳拳服膺して」とあります。これも明治天皇ご自身が実践して国民に手本を示したいというのです。決して国民に対して命令したり指示したりしているわけではないのです。
自ら実践するという帝王学の「倫理」がここにあるのです。
明治天皇は日清戦争で大国である清国を相手に戦わざるを得なくなると、明治天皇自ら広島に大本営を進められて、そこで前線から入る情報を聞かれて戦地で戦う将兵を偲んでおられました。特に戦死者の名簿が戦地から届くと、たとえ夜中でも一人一人の氏名をご覧になられ、なかなかお休みになられなかったといいます。
このご滞在が相当に長くなると、昭憲皇后がご心配のあまり広島へ出向かれましたが、明治天皇は容易には会われなかったのです。
この時、明治天皇は「兵士たちは妻子と別れて出征して第一線で戦っている。自分も皇后と会うわけにはいかない」と仰せられたのです。
日本軍が強いわけです。この強い日本軍は大国ロシアにも勝つと、海外からはこのように評されました。
「日本国民は見識を持ち、勤勉かつ壮健である。彼らの宗教の中には祖国と偉大な天皇陛下への崇拝心が混在している」
つまり、明治の時代とは明治天皇を中心に国民が一体となって高い道徳性と倫理性を持ち、近代国家建設に邁進する姿が鮮やかに映っていたのです。
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