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江戸時代に来日した外国人は天皇をどう見たか

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2012-12-24

江戸時代に来日した外国人は天皇をどう見たかAdd Star

 
江戸時代も天皇は日本の不動の核であった。
 
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 江戸時代は将軍がいましたから天皇と「大君」が二人いたわけです。将軍は政治、行政の長にあり、天皇はというと「禁中並公家中諸法度」により行動は厳しく制限されていました。天皇は学問、管弦、和歌、雑芸、神事、朝廷政務といったことを行うと定められていました。即位、譲位も江戸幕府の意向が強く反映されていました。しかし位は将軍よりも上です。また、三代将軍家光の命により天台宗の高僧、天海が作成した「東照大権現縁起」は神国思想であり、「天下の政(まつりごと)を佐(たす)け」「君を守り国を治めること世に超過せり」とあり、将軍は天皇を守る存在と位置づけられています。
 
 こうした日本独特の政体の中にある天皇を来日した外国人はどう見たのでしょう。
 
 オランダ商館付きの医師エンゲルベルト・ケンペル(元禄3年 1690年来日)「日本誌」
 
「天皇は現にその権限(教界に属する事項)を享有し、神々の正統な後継者として認められ、現つ神(あきつかみ)として国民から尊敬されているのである」
 
 オランダ商館付きの医師カール・ツンベリー(安永4年 1775年来日)「江戸参府随行記」
 
「将軍以外にもう一人、宗教上の皇帝(天皇)がいる。その権力は現在、宗教および皇室領に関する事柄に限定されているが、この宗教上の君主すなわち天皇は、過去2000年にわたるこの国最古の君主からつづく正統な一系の子孫に当たる」
 
宗教上の皇帝という見方を示しています。しかし、この宗教的皇帝観に疑念を抱く外国人もいました。寛政11年(1799年)から19年間も出島のオランダ商館長を務めたヘンドリック・ドゥフです。
 
「世間多くの著作者が言明する如く、内裏(天皇)は精神的皇帝にして、将軍は政治的皇帝なりといふに非ずして、内裏は本来絶対的主権者なりしこと」(ヅーフ日本回想録)
 
これはロシアのレザノフ使節が文化元年(1804年)に来日し通商を要求したとき、幕府が朝廷の意見を尋ねたことを聞き知ったからです。(実際にはその事実は確認されていない) 幕末に来日した外国人はどうでしょうか。
 
 アメリカ ペリー提督 (嘉永6年 1853年来日)「ペルリ提督日本遠征記」
 
「日本は、同時に二人の皇帝を有するといふ奇異なる特質を有してゐる。御一人は世俗的な皇帝であり、他の御一人は宗教的な皇帝である」
 
 フランス海軍士官スエンソン (慶応2年 1866年来日)「江戸幕末滞在記」
 
「二宗教の最高権威としてミカドが君臨する。ミカドは神道ではまさに神格化され、神として拝まれているが、仏教の方でも、さまざまな条件により修正をほどこされた宗派では、少し位は落ちるが、一応神としての威厳をミカドに与えている。(中略) ちなみに大君(将軍)は、日本の非常に古い憲法(律令)によればミカドの統治官にすぎず、すべての点でミカドの命令に服すべきことになっていた」
 
宗教的な皇帝として見ています。スエンソンはよく情報を集めています。江戸時代は神仏習合の宗教観であり、天皇は仏教の頂点でもありました。即位礼で天皇は密教の真言を唱え、手に智拳印(両親指を掌中に入れて握り、左人差指を立てて右拳で握る)を結びます。これによって天皇は大日如来になぞらえられます。天皇が仏教から切り離されたのは明治元年の神仏判然(分離)令によるものです。
 
 イギリス外交官アーネスト・サトウ(文久2年 1862年来日)「一外交官の見た明治維新」
 
「条約締結の名義人である元首、すなわち将軍が政治上の主権者であって、御門(ミカド)、すなわち天皇は単に宗教上の頭首、ないしは精神界の皇帝(エンペラー)に過ぎないのだと、当時はまだそのように信じられていたのである。(中略) 日本国の政体は、早くも十二世紀において、十九世紀後半の初期になってもまだ見られるような形態をとっていたのである。このように尊厳な、古い伝統を有する制度は、充分に深く国民の中に根をおろして、国民生活の要素となっていると考えてよかろう」
 
サトウは長く日本におり、「一外交官の見た明治維新」は後年に書いたもので、「当時はまだそのように信じられていた」とある通り、天皇は宗教上の長という見方が大勢だったと述べています。そして本質を次のようにも書いています。
 
「当時外国人の間では、名分上の君主という単なる名目中に存在する無限の権威についてはまだ全く思い及ばなかったし、また外国人の有した日本歴史の知識では、日本の内乱の場合に天皇(ミカド)の身柄と神器を擁することのできた側に常に勝利が帰したという事実がまだわからなかったからだ。おそらく、世界のどの国にも、日本の歴代の皇帝(エンペラー)ほど確固不動の基礎に立つ皇位についた元首は決してなかったろう」
 
明治維新で証明されたように天皇は不動の核という意識が日本人には染みついていました。将軍すら神国思想であり、儒学者の新井白石も天皇を「天」、将軍を「地」とし、天皇を概念的にも上に位置づけていました。最後の将軍である徳川慶喜が薩長軍に恭順したのも錦の御旗(にしきのみはた)に弓は引けないというのが大きな理由で、後年、伊藤博文から動機を質問されたとき「家訓を守っただけ」と答えています。水戸藩は光圀公以来、尊皇の大義を重んじた家柄でした。
 
 概ね外国人は天皇を宗教上の長と見ていたようで、これ自体は間違いではありませんが、明治維新で玉を抱いた薩長軍が勝利したのを見て、その存在の世俗性と大きさに気がついたようです。



 
参考文献
 
 講談社「江戸時代の天皇」藤田覚(著)
 
 平凡社「江戸参府随行記」C・P・ツュンベリー(著)/ 高橋文(訳)
 
 講談社学術文庫「江戸幕末滞在記」E・スエンソン(著) / 長島要一(著)
 
 岩波文庫「一外交官の見た明治維新」アーネスト・サトウ(著) / 坂田精一(訳)
 
 学陽書房「徳川慶喜」三好徹(著)
 
添付画像
 
 孝明天皇(PD)
 
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