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[転載]昭和天皇陛下の御心を伝えるために戦地に飛び立つ皇族たち 終戦直前の命がけ任務

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サイタニのブログからの転載です。

この方たちが、皇族ならではの任務を命がけで行われたことは、この一連の記事で初めて知りました。国を護るために命がけの戦いをする兵士に停戦命令を伝えることは、また同じように命がけの伝達であり、天皇の真実の命令であることの証明ができなくては、兵士たちは受け入れがたかったでしょう。その為には皇族の身分が必要であり、それによって、兵士たちは停戦を納得して受け入れたのです。


竹田 恒泰著  「皇族たちの真実」より

三皇族、南方戦線に陛下の心を伝える為飛立つ

命拾いした竹田宮
 
 
閑院宮を乗せた陸軍爆撃機は福岡に一旦着陸した後に上海に向かい一泊。
翌日広東経由で仏印南部のツーランに着陸してもう一泊し、19日の午前10時
半にサイゴンに到着した。
 
宮が南方軍総司令官寺内寿一元帥に聖旨を伝達すると、寺内元帥は涙を溢れさせ、部下に体を支えられてかろうじて起立を維持している有様であつたという。このとき閑院宮も一緒に泣いたそして翌20日には昭南(しゅうなん)(日本占領時のシンガポールの呼称)に行き、海軍司令部において第十方面艦隊司令長官福留繁(ふくとめしげる)中将に同様に聖旨を伝え、サイゴン、南京、富山を経由して24日、東京に戻った。
 
一方、竹田宮は東京・立川から専用機で飛び立ち、新京へ向かい、関東軍司令部二階の広い総司令官室を埋め尽くすほどに集まった関東軍総司令官山田乙三(やまだおとぞう大将以下幕僚等に対して・昭和天皇の御決意と、そして仰せられたことをできるだけ詳しく謹んで伝達した。
 
そこには竹田宮の幼年学校の二級下の後輩で、宮の後任として新京に着任したばかりの瀬島龍三参謀の姿もあった。宮は「どんな返答が戻ってくるか、この時ほど心配したことはなかった」と後に書き残している。しかし、厳粛な空気の中、山田大将から「謹んで聖旨に沿い奉ります」との奉答を受けた。誰もが目頭に熱いものを浮かべていたという。

その晩竹田宮は山田大将の官邸に宿泊し、翌18日の朝、奉天(現在の瀋陽)に向かった。だが、新京を離陸した飛行機は間もなく故障を生じ、再度新京へ戻ることになる。幸い故障は一時間ほどで修理され、奉天に向かった。19日には新京にソ連軍が進駐することになるため、このとき速やかに修理できず、宮が新京にもう一泊することになっていたら、シベリアに抑留されていただろう。運命の分かれ道である。

奉天に着いた竹田宮は第三方面軍司令部で、昨日と同様に聖旨を伝達し、その日のうちに京城(けいじょう)(日本統治時代のソウルの呼称)に行き、朝鮮軍司令部にも同じく聖旨を伝達した。これで天皇の特使としての任務は全て終了した。

前述のように、竹田宮には東久邇宮首相からの密命があった。宮は満州国皇帝愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が通化(つうか)の山中にいることを知っていた。17日に当時不通だった電話が幸いにも通じ、翌18日午後に京城で皇帝と会う約束をしていたのだ。

ところが、京城の朝鮮軍令部で聖旨伝達が終わり、竹田宮が朝鮮総督阿部信行(あべのぶゆき)大将〔元首相〕と朝鮮軍司令官上月良夫(こうづきよしお)中将に招かれて会食をしているところへ、通化にいる皇帝から「小さな飛行機しかないので長白山脈が越えられないから、明日(19旦午後奉天に出る」との電報が来た。

このことが溥儀皇帝の運命を決することになる。これこそ「運命の悪戯」としか表現のしようがないが、もしこの日溥儀皇帝が無事に京城に到着していれば、皇帝はその日のうちに日本への亡命を果たしていたに違いない。そうなれば、極東国際軍事裁判(東京裁判)における日本の評価もまた違ったものになったと思われる。

竹田宮は新京に赴任中、溥儀皇帝とは特に親しくしていた。食事をともにすることも多く、宮が第一総軍に転任で新京を去るときには、皇帝はお忍びで宮の官舎に見送りにきたほど二人は親密だった。竹田宮はなんとか溥儀皇帝を日本にお連れしたいと強く思っていたに違いない。

竹田宮は翌日再び奉天に戻って溥儀皇帝との再会を果たそうとする。だが阿部朝鮮総督と上月朝鮮軍司令官が口を揃えて「あなたの主任務聖旨伝達の結果を一刻も早く帰って陛下に復命し、御安心を頂かれるべきではありませんか」と注意した。その言葉に竹田宮はハッと目を覚まし、直ちに東京に帰ることを決した。そしてこの一言が竹田宮に命拾いをさせることになる。

ソ連軍が満州帝国に侵攻している状況において、奉天が間もなくソ連軍に占拠されることは明白であり、奉天は京城より格段に危険な状況にあった。宮が奉天での任務を終了させて一旦京城に至っておきながら、再び奉天に戻るということは、いくら首相の密命があったとはいえ、極めて危険な行為であった。

パイロツトの壮絶な死
 
19日、やはり奉天はソ連軍に占拠され、通化から出てきた溥儀皇帝は奉天飛行場でソ連軍に身柄を拘束され、そのままシベリアに送られてしまう。竹田宮が皇帝に会うべく奉天に戻っていたら、同様の運命を辿っていたことであろう。

シベリアに抑留された溥儀皇帝は、その後昭和21年(1946)に東京裁判に証人として出廷、1950年に身柄を中国に引き渡される。1959年に特赦で出所が認められて35年ぶりに北京に戻り、北京植物園に勤務し、1967年に61歳で波乱の生涯を閉じることになる。

竹田宮が関東軍へ聖旨を伝達するに当たり、宮が中国大陸の上空に差しかかってから朝鮮半島に帰るまでの間、四機の戦闘機「隼」が編隊を組んで宮の搭乗機を終始護衛していた。その搭乗員はいずれも若く優秀なパイロットであった。
 
 
竹田宮が本国に戻るに当たって、宮は厚く礼を述べ、その一人一人と堅い握手を交わし「今後、いろいろの情勢になろうが、くれぐれも自重して、日本の再興に尽してくれ」と言って別れた。しかし、彼らは間もなく壮絶な最期を遂げることになる。四人のパイロットは奉天飛行場で翼を休めるソ連機を目撃し、奉天が既にソ連軍に占拠されていることを悟った。奉天飛行場で帰りを待っていた羽(はね)飛行団長の島田安也中佐は、そのときの様子を次のように話している。

「四機は超低空で入って来て転回し、もう一度それを繰り返してから、三度目に飛行場のど真ん中で急上昇に移った。ほぼ垂直に上りつめた四機は、なんと編隊を組んだまま、真っ逆さまに空港中央に突っ込んで自爆した」
(竹田恒徳『雲の上、下思い出話』に所収)

四人のリーダーである鎌田正邦(かまたまさくに)大尉が20歳、他の三人は21歳前後という若さだった。その壮絶な自爆を間近に見たソ連軍の指揮官は、目を丸くして驚き、側にいた日本の将校が「日本武士道には、戦いに敗れた際腹を切る習わしがある。これこそパイロットの切腹ですと答えたと伝えられている

8月20日、竹田宮は無事に帰国し復命することができた。そして南方軍に
出かけた閑院宮春仁王と、支那派遣軍に出かけた朝香宮鳩彦王も任務を終えて無事に帰還する。この事実は、8月23日付の新聞で報じられた。

「三殿下、現地へ特派聖旨、停戦の大命御伝達大本営発表〈中略〉陸軍少将春仁王を南方に、陸軍中佐孚彦王を支那に、陸軍中佐恒徳王を満州に特派、各陸海軍最高指揮官に対し夫々聖旨及停戦に関する大命を伝達せしめられたり」(『朝日新聞』昭和20年8月23日付、1面トップ)
〔「陸軍中佐孚彦王」は「陸軍大将鳩彦王」の誤り〕
 
注:4人のパイロットの御冥福を祈ります。

竹田宮三度目の御召
 
終戦の聖旨伝達はこれで終わったわけではなかった。既に述べた八・一五事件でも明らかなように、軍部の若手将校の中には日本のポツダム宣言受諾に反発する者もあり、連合国の進駐に当たり最後の抵抗を試みる動きがあった。

そして現に敵の上陸に備えてあからさまに攻撃の準備をしている部隊もあった。陸海合わせて789万人〔終戦時の残存兵員数〕の巨大な日本軍が一斉に武装解除することは実際には極めて困難なことであったのだ。

竹田宮が帰国してから2日後の8月22日、昭和天皇から竹田宮に三度目の御召があった。昭和天皇は連合軍の本土進駐のときに不心得があってはいけないと大変御心配になり、我が国最南端を守っていた福岡の陸軍航空部隊(第六航空軍)に行って、決して不心得なことをしないようによくよく自分の気持を伝えること、また宇品の陸軍船舶司令部が敵の上陸に備えて水上特攻を準備していたので、これにも自重するよう聖旨の伝達を命ぜられた。

竹田宮は直ぐに福岡、そして宇品に行って聖旨を伝達し、それぞれ矛を収めさせた。また23日には高松宮が海軍航空部隊へ出かけて行き、同じように 天皇の思召を伝達した。そして25日に高松宮、久邇宮、竹田宮の三名は御所を訪れ復命した。

8月26日は、連合国進駐軍の先遣隊が神奈川の厚木飛行場に降り立つ日だった。その日までには日本の飛行機は全て武装解除し、飛べないようにしておく必要がある。しかし厚木飛行場の相模原航空隊は命令を無視し、進駐軍を撃退すべく演習を続けていた。海軍は強い態度でこれを抑えようとするが、彼らは決死の覚悟であり、容易に言うことをきかない。

そこで時の首相東久邇宮稔彦王は 昭和天皇に高松宮の御差遺を願い出た。高松宮が直接説得することで、24日の夕方、飛行場を占拠していた強硬派の地上勤務部隊が海軍治安部隊に厚木飛行場を明け渡した。翌25日には米軍機が東京上空を盛んに飛んだため、もし厚木飛行場の武装解除が半日遅れていたら、日米の交戦状態に至った可能性もあり、非常に危険な状態だった。

天候の都合により、進駐軍先遣隊の到着は28日に延期され、マッカーサー元帥の到着も30日に順延された。マッカーサー元帥は日本に進駐軍を送り込むに当たり、相当の混乱があることを予測していた。だが、8月30日、平穏のまま、マッカーサーはサングラスを掛けてパイプを咥(くわ)えながら厚木飛行場に降り立った。

敵と向かい合っている部隊の一部は、8月15日に玉音放送で終戦が伝えられているにもかかわらず、また陸軍省や海軍省から武装解除の指令が出ているにもかかわらず、いまだ武装解除することなく、上陸する敵を迎え撃つ準備を進めていた。だが皇族が出向いて直接天皇の御心を伝えることで、彼らは初めてポツダム宮言受諾、敗戦、そして武装解除を受け入れたのだ。

この任務を遂行することができたのは皇族しかいなかった。昭和天皇は27日、天皇の特使を果たした高松宮、三笠宮、朝香宮、竹田宮、閑院宮を宮城の表拝謁間に御招きになり、御慰労をなさった〔朝香宮は体調不良につき欠席〕。この特使の任務は、混乱する最前線を転々とする極めて危険な任務であったため、ここに集まった皇族たちは生きて帰ったことの喜びを分かち合ったに違いない。
 
 

転載元: 日本の感性をよみがえらせよう


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