今から75年前の12月12日、支那事変で日本軍が南京城へ総攻撃をして、支那の司令官唐生智が南京城から脱出し、12月13日に南京城が陥落しました。ここで日本軍の大虐殺があったと言われていますが、東京裁判でも何一つ証拠がなく、日本を貶める捏造であったことはご承知の通りです。
----------------------
西部「最後は侵略ですからね、日本がやったことは。侵略された側は恨みを持ついことはありますからね。いろんな意味で謝罪することは重々必要であると思います」
菅直人「日本自身がやったことを日本人がどうすることが問われている。あの戦争はなぜ始めたのか。満州事変から日中事変があって、太平洋戦争になるわけです。日本人だけでも300万人が亡くなったわけです。負ける戦争をやったわけですよ。少なくとも歴史的に言えば負ける戦争をやった将軍は例えば戦国時代でいえば腹を切るんですよ。つまり日本自身が負ける戦争をやった責任を何一つ問わないから」
「どういう形で戦争責任を取るべきだったのでしょうか」
菅直人「日本自身が極東裁判をやらないとすれば、少なくとも政治的には何が間違っていたかを明確にして、例えば天皇陛下は私はあの時に逮捕されていたほうがよかったと思いますね」
「逮捕されていたほうがよかった?」
菅直人「退位。明治憲法下で天皇機関説的に動いていましたから直接的な政治責任はありません。しかし象徴的にはあります。ですからそこは一つのけじめを政治的にもつけるべきであるし象徴的にもつけるべきである。ですから例えば当時のA級戦犯であった岸信介という人がその後復活するわけですよ、日本で。そういうことが日本のけじめのなさの象徴なんです」
西部「そうですよ、僕はそれに賛成ですよ。つまり天皇も含めてですね、法律的責任もない、政治的責任がなくても、最終的にはやっぱり道徳的責任はあったと考えるべきですよ」
-----------------------
間違った歴史観を持っている者同士で、日本が侵略したとか天皇を逮捕とか退位とか、しまいには天皇には象徴的責任や道徳的責任はあるとか、好き勝手なことを言っています。
かつて日本は日露戦争後に南満州鉄道や関東州を正式に譲渡されて、その後も日本の資金で大いに発展させました。これを奪い取ろうとコミンテルンが共産匪賊などを仕掛けて日本の発展の邪魔をしていたため、日本の権益と日本人の安全と治安のために日本軍がいたのです。またコミンテルンの狙いは日本軍と国民党軍を戦争に追い込み、日本を弱らせて世界戦争に巻き込む謀略も持っていました。
また、満州は日本への資源や人口問題、そして何よりも国防上も非常に重要な位置であり、防共の役割も果たしていました。
この満州の開拓の妨げになっていた共匪などに対して日本政府は全く関心を示さず対応もしなかったため、見かねた日本の軍人たちが現地満州の日本人たちの生命財産を守るために、日本企業破壊を目論んだり満州に重税をかけて現地住民を苦しめていた張学良を満州から追い出し、治安と生活の安定をはかりました。
ただ、学校では教えないために知られていませんが、この満州事変と同じ時期に日本国内では3月事件と10月事件という国家破壊の計画が実行されようとして未遂に終わっています。これを裏で操っていたのもコミンテルンでありました。
菅直人は「日本自身がやったことを日本人がどうすることが問われている」と言っていますが、満州事変だけでも書き始めるとかなりの長文になります。
このように満州事変も確かに日本人の手によりますが、仕掛けてそうさせたのはコミンテルンなどの外国の謀略によるものであったのです。
満州事変の3年前の張作霖爆殺事件(当時は満州某重大事件と言って張作霖の死を伏せていました)も学校では日本軍の河本大作がやったとなっていますが、実際にやったのは張作霖がコミンテルンの謀略を暴き、ソ連にとって邪魔な存在であったソ連の手によって日本が利用されたことはすでに明らかになっています。
菅直人は「負ける戦争をやったわけですよ。少なくとも歴史的に言えば負ける戦争をやった将軍は例えば戦国時代でいえば腹を切るんですよ。つまり日本自身が負ける戦争をやった責任を何一つ問わないから」とも言っています。
この発言をしたのは2005年ですが、その6年後、自分がまさか総理大臣になるとは思ってもいなかったのでしょう。大震災と原発事故の対応のまずさで多くの国民を苦しめ、その責任は何一つとることなく見苦しい弁解に終始し、大震災の日に外国人献金を追及され、市民の党との疑惑もあり、その件をうやむやにしたままの菅直人こそ「けじめのなさの象徴」であり、「逮捕されてもいい」責任者であり、「腹を切る」べき責任者であったのです。
かつて実際の意思決定は帝国議会などが行い、陛下は意見を言うことのない君臨非統治でありました。ただ、大東亜戦争前の御前会議で「四方の海」を読み上げ明治大帝の平和愛好の精神を述べられたり、終戦には鈴木貫太郎首相から「思し召しをうかがわせて下さい」との御聖断もありましたが、それをもって戦争責任といえるものではないことは明白であります。
にもかかわらず終戦直後、第一生命ビルの連合司令長官マッカーサーに会った陛下はこのように仰せられました。
「今回の戦争の責任は私にある。そして日本人は今飢えている。私はどうなっても構わないから、将軍の力で日本国民を救ってほしい」。
世界ではどこも敗戦国の元首は自分の命請いや財産を持って亡命をして逃げるのに、先帝陛下のこのお姿にマッカーサーも「神の如き帝王を見た」と心から感動したといいます。
にもかかわらず天皇陛下を「逮捕」と口走ってから、直ぐに「退位」だと言い直すというのは、菅直人の意図的なやり方でありましょう。大体、仙谷(元官房長官)の「暴力装置」のように普段からこのようなことを思っていなければこういう言葉はすぐには出てこないはずです。
さて、先帝陛下は後にこう語られました。
「当時の私の決心は、第一にこのままでは日本民族が滅びてしまう、私は赤子を保護することが出来ない。第二には国体護持の事で敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない。これでは国体護持は難しい。故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った」
日本が戦わなければ白人国家の奴隷となり植民地にされていたことは間違いなく、英霊たちの勇ましく白人らを震撼させた敷島の大和魂と陛下の御決断と行動によって、今の日本国民の平和があることを忘れてはならないのです。
・・・・・・
人気ブログランキングに参加しています。
正しい歴史を知るべきだ、と思った方はここをポチッとお願いします。