岡田 資 陸軍中将
「戦犯」とは戦争犯罪人の略称ですが、大東亜戦争後にアジア・太平洋の各地で開かれた軍事裁判は、戦犯をA項・B項・C項のさ3項に分けました。「A級戦犯」とは、ロンドン協定により開設された極東国際軍事裁判所条例の第五条(イ)項の、(イ)平和ニ対スル罪 に定義により決定された戦時の政治・外交・軍事指導者で、「侵略戦争」を計画・実行したとして起訴または有罪とされた者、「B級戦犯」とは、戦争犯罪類型B項(ロ)「通例の戦争犯罪」、非戦闘員や捕虜の虐待など戦時国際法に違反する行為を行ったとして起訴または有罪とされた者をいい、C項は(ハ)「人道に対する罪」とされました。
極東国際軍事裁判ではA級戦犯とされた7人の日本人が心ならずも、絞首刑とされたが、これ以外にBC級戦犯とされた人々、1,061名が処刑された。BC級戦犯裁判とは、特定地域で「通例の戦争犯罪」を行った者に対して、連合国各国が行った軍事裁判をいい、連合国は米、英、仏、豪、フィリピン、オランダ、中華民国の7カ国が、49の法廷でこの裁判を実施しました。この他にソ連も裁判を行った。その実態は殆ど知られず、闇の中です。
岡田中将を描いた映画「明日への遺言」は平成20年に公開されました。
第13方面軍司令官、兼東海軍司令官であった岡田中将は部下19名とともに名古屋空襲の際、落下傘で降下して捕獲された搭乗員・無線手ら38名を斬首したとして殺人罪で起訴されました。しかし岡田中将はこの裁判を「戦争の継続だ。法戦だ」と称し戦ったのです。
昭和20年5月当時、38回に及んだ名古屋地方の空襲は無差別焼夷弾爆撃でした。特に5月14日の空襲は、機数486機、全投弾量2563トン、市の北部80パーセントが焼失し、法廷では孤児院の院長、列車車掌の車掌がフェザーストン主任弁護人の質問に答えて空襲が無差別爆撃であった様子を次から次に証言する。ハーグ条約からいえば空爆は軍事施設に限られ、無差別空爆をすれば戦争犯罪である。捕虜とは認められない。
岡田中将は決心しました。「余の統率のもとにあくまで戦ひ抜かんと考えた。(略)吾人は当初においては、消極的な斬死案であった、しかるに米軍の不法を研究するに従い、之は積極的に雌雄を決すべき問題であり、我が覚悟において強烈ならば、勝ち抜きうる者であると判断した」(遺書「毒箭」より)。
岡田中将は略式裁判ながら法的に問題がない。責任はあくまでも自分にあると主張されました。岡田中将のいう責任とは、「司令官はその部下が行ったすべてについて、唯一の責任者です」岡田中将が一人でその責任を負うとしているのが誰の目にも明らかであった。バーネット主任検事、裁判長は岡田中将を助けようとして助け船を出すが、岡田中将は「違法行為があった場合に限る報復が認められる。この処刑は報復でなかったか」の問いに「処罰であった」と自分の信念を通されたのです。
下された判決は岡田中将のみが「絞首刑」でした。
一人責任を取り処刑された東海軍司令官、岡田資中将は処刑前日、戦犯の家族の面倒を見た笹川良一氏に手紙を送っています。
笹川氏は当時は衆院議員でA級戦犯不起訴組でした。岡田中将は巣鴨プリズンにいる間、卑屈にならず散歩の際でもうなだれることなく、顔を上に挙げて歩るいていたという。同じく巣鴨にいた笹川氏は「あっぱれなり岡田中将。全く頭が下がるほど、立派であった」と書き残しています。
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極東国際軍事裁判ではA級戦犯とされた7人の日本人が心ならずも、絞首刑とされたが、これ以外にBC級戦犯とされた人々、1,061名が処刑された。BC級戦犯裁判とは、特定地域で「通例の戦争犯罪」を行った者に対して、連合国各国が行った軍事裁判をいい、連合国は米、英、仏、豪、フィリピン、オランダ、中華民国の7カ国が、49の法廷でこの裁判を実施しました。この他にソ連も裁判を行った。その実態は殆ど知られず、闇の中です。
BC級戦犯裁判のうち、日本国内では、唯一、アメリカが横浜地方裁判所を接収して行いました。これを、BC級横浜裁判といいます。事件総数は327件、起訴人員は合計1,037名で、各地のBC級裁判の中でも最大規模であり、判決では112名ないし123名あるいは124名に絞首刑が言い渡され、うち51名の絞首刑が執行されました。
約千名の人々が、東京・横浜以外の法廷で裁かれ、処刑されたわけです。そのうちの多くは、外国でずさんな形で起訴され、弁護らしい弁護も受けられずに、戦勝国による見せしめ、復讐として処刑されました。
戦後B級戦犯に問われ、一人責任を負って絞首刑(昭和24年9月17日)となった岡田資陸軍中将(陸士23期)の名前を知っている人は少ないでしょう。戦後の日本人はあえて知ろうともしなかった。このように国に殉じた軍人を偲び、顕彰しない文明国は世界広しといえど、わが国だけです。岡田中将を描いた映画「明日への遺言」は平成20年に公開されました。
第13方面軍司令官、兼東海軍司令官であった岡田中将は部下19名とともに名古屋空襲の際、落下傘で降下して捕獲された搭乗員・無線手ら38名を斬首したとして殺人罪で起訴されました。しかし岡田中将はこの裁判を「戦争の継続だ。法戦だ」と称し戦ったのです。
昭和20年5月当時、38回に及んだ名古屋地方の空襲は無差別焼夷弾爆撃でした。特に5月14日の空襲は、機数486機、全投弾量2563トン、市の北部80パーセントが焼失し、法廷では孤児院の院長、列車車掌の車掌がフェザーストン主任弁護人の質問に答えて空襲が無差別爆撃であった様子を次から次に証言する。ハーグ条約からいえば空爆は軍事施設に限られ、無差別空爆をすれば戦争犯罪である。捕虜とは認められない。
岡田中将は決心しました。「余の統率のもとにあくまで戦ひ抜かんと考えた。(略)吾人は当初においては、消極的な斬死案であった、しかるに米軍の不法を研究するに従い、之は積極的に雌雄を決すべき問題であり、我が覚悟において強烈ならば、勝ち抜きうる者であると判断した」(遺書「毒箭」より)。
岡田中将は略式裁判ながら法的に問題がない。責任はあくまでも自分にあると主張されました。岡田中将のいう責任とは、「司令官はその部下が行ったすべてについて、唯一の責任者です」岡田中将が一人でその責任を負うとしているのが誰の目にも明らかであった。バーネット主任検事、裁判長は岡田中将を助けようとして助け船を出すが、岡田中将は「違法行為があった場合に限る報復が認められる。この処刑は報復でなかったか」の問いに「処罰であった」と自分の信念を通されたのです。
下された判決は岡田中将のみが「絞首刑」でした。
一人責任を取り処刑された東海軍司令官、岡田資中将は処刑前日、戦犯の家族の面倒を見た笹川良一氏に手紙を送っています。
「前の手紙を出してまた矢継ぎ早やに出します。是が絶筆となりました。今夜半を静かに待機する身となりました。私としては覚悟のことが予定通りきたのに過ぎませんが、後の青年に与える精神的打撃が小さくないと思ひそれが気になります。でも彼らには大乗仏教の本筋をあらかた打ち込みましたので後は大丈夫と思います。(中略)私に関しては元より、あの青年達のために与えられた大兄の太慈悲に対していかに御礼申し上げてよいか分かりません。所謂無所得とは云ひ条、必ず善根は大兄に善果報をはこぶでしょう。国破れて徒に将領の生き延びる事のつらさは、是で解消します。人生の最後に、多少の光芒を曳き、時代の青年を多少とも照らすよすがともなれば幸甚です。(後略す)」岡田中将の関心は常に日本の将来に向いており、青年をへこたれぬようにと望まれたのです。
笹川氏は当時は衆院議員でA級戦犯不起訴組でした。岡田中将は巣鴨プリズンにいる間、卑屈にならず散歩の際でもうなだれることなく、顔を上に挙げて歩るいていたという。同じく巣鴨にいた笹川氏は「あっぱれなり岡田中将。全く頭が下がるほど、立派であった」と書き残しています。
岡田中将の遺稿
岡田中将は遺稿に次のような言葉を残されています。
こころある日本人は、戦犯という文字を使うべきではありません。
わが国に戦犯は存在しないのですから・・・
日本人なら、日本人を信じるべきです。
そして日本人としての「矜持」を持ってほしいと願ってやまないのです。
「民族国家は大敗北を吃したのであります。此処数十年間、大任を受けて国家指導を御手伝して居た当局連中の、大敗北であることは勿論肯定します。果たして、戦後の日本人は岡田中将が願われた、正しき民族の火を燃やし直したでしょうか?
が大和民族が積極的に侵略に出たとか、戦争の原因は日本一国が背負ふべし等と脱線して、果ては日本と名のつくところ何物も残すべきものはない。一切御破算で、思想迄全部輸入品に切り換へるかの如き、戦後の脱線無気力振りには、つくづく情無くなります。
然れども、我等に知らされる与論は、極めて皮相一方的なもののような気がします。或いは一時的な反動も多分に見えます。更に食料不足から生ずる変態もあります。でも灰を掻き回せば確かに火種は有りませう。又正しき民族の火を燃やし直すのです。絶対に徒らなる旧態への還元ではいけません」
こころある日本人は、戦犯という文字を使うべきではありません。
わが国に戦犯は存在しないのですから・・・
日本人なら、日本人を信じるべきです。
そして日本人としての「矜持」を持ってほしいと願ってやまないのです。