2012-11-12
南京虐殺幕府山事件の印象操作
かつて日本は美しかった誇りある日本、美しい日本へ
自衛行為だった幕府山事件。
昭和12年(1938年)12月の南京戦でよく言われるのが南京城外の幕府山で捕虜を大量処刑した、という話です。これが南京虐殺に相当するというものです。関与したのは山田支隊の歩兵第65連隊両角(もろずみ)部隊と言われています。部隊は揚子江沿いに進撃し、幕府山で約14,000人の敗残兵を捕獲し、いったん収容したものの、揚子江岸に連れ出して殺戮したというのです。
笠原十九司「南京事件」歩65連隊第八中隊遠藤高明少尉の陣中日誌 十二月十
六日
「捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引き出しI(第一大隊)において射殺す。一日二合宛給養するに百俵を要し、兵自身徴発により給養しおる今日、到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるもののごとし」
歩65連隊第七中隊 大寺隆上等兵の陣中日記 十二月十八日
「昨夜まで殺した捕リョは約二万、揚子江に二箇所に山のように重なっているそうだ。七時だが片付け隊は帰ってこない」
こういう証言を取り上げて「大虐殺」としているのです。兵士は単に命令を受けて動いているだけで、命令の経緯を知らなかったり、その場で見たもの、やったことだけを簡単に日記に記したりします。全体像を見るには証言をパズルのように組み合わせ、上級幹部の証言や命令書、戦闘詳報などと付き合わせていく必要があります。それをすっ飛ばして「大虐殺」としているのです。印象操作です。読んだ人は「南京大虐殺だ」と思ってしまうでしょう。
亜細亜大学教授の東中野氏がこれらの証言を組み合わせて謎解きを行なっています(南京虐殺の徹底検証)。これに沿って他文献と照合してみます。
まず14,000人の敗残兵の中から非戦闘員を解放し、8,000人になります。それを幕府山南麓のバラックに収容します。
山田支隊長の日記 12月15日
「捕虜の始末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す 皆殺せとのことなり 各隊食料なく困窮す」(原文カタカナ)
皆殺せ、ということです。これについては緒論ありますが、全体像を掴むためおいときます。まずは山田日記は遠藤高明少尉陣中日誌と一致します。
幕府山要塞の地下に食糧が見つかって支那兵捕虜は自ら炊事を始めました。収穫時期から間もないので、探せばどこかに食糧はあったようです。第八中隊の近藤伍長の日誌に「午后、米徴発に行く、幸いに南京米が沢山あつたので六本駄馬を持つて取つて来る、支那の工兵の材料集積所らしい」とあります。そして、収容所で火事がおきます。火事のことは兵士たちの記録にもあります。放火です。時間が違いがありますが、陣中日誌というのは戦闘期間に書くのは困難で、後で記憶をたどって書くものですから、記憶違いなどが多くあります。
両角連隊長手記
「ちょっと火事場から離れると、もう見えぬので、少なくとも四千人ぐらいは逃げ去った」
こういうことがあったので、軍は態度を硬化させ、銃殺しろ、と言ってきたと思われます。大寺上等兵の17日の日誌には「時々小銃弾が頭の上をかすめて行く」と書いているほどゲリラが出没していました。戦闘はまだ終了していないわけで、捕虜はまだ捕虜と言えず、捕虜の資格もないゲリラ予備軍ですから危険な存在です。これが遠藤少尉の16日「捕虜の三分の一を江岸に引き出しI(第一大隊)において射殺す」につながります。処刑はあり、それには理由があったのです。
両角連隊長手記
「17日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ」
「軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発泡したので・・・この銃声を、日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ」
17日の事件は捕虜の暴動がおき、これで日本兵士が鎮圧のため銃撃したのです。日本兵も死傷者が出ています。発砲がどこから起こったかは諸説ありますが、両角連隊長の手記と六十五連隊の生き字引と言われる平林少佐の証言は一致しており、捕虜を逃がすためだったのは間違いありません。一般兵士は経緯を知らないものや、単に射殺したとか書いているだけです。これが南京大虐殺の証言として利用されたわけです。これらは虐殺ではなく、自衛行為に相当します。
参考文献
岩波新書「南京事件」笠原十九司(著)
大月書店「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」小野賢二・藤原彰・本多勝一
(編)
転展社「『南京虐殺』の徹底検証」東中野修道(著)
日本図書刊行会「本当はこうだった南京事件」板倉由明(著)
WAC「南京大虐殺のまぼろし」鈴木明(著)
添付画像
日本の部隊に収容された中国人捕虜の一部 (昭和12年12月16日)(PD)
平林少佐証言 「南京大虐殺のまぼろし」より
大量の捕虜を収容した、たしか二日目(15日)に火事がありました。その時、捕虜が逃げたかどうかは、覚えていません。もっとも、逃げようと思えば簡単に逃げられそうな竹がこいでしたから。それより、問題は給食でした。われわれが食べるだけで精一杯なのに、一万人分ものメシなんか、充分に作れるはずがありません。それに、向こうの指揮官というのがいない(※)から水を分けるにしても向こうで奪い合いのケンカなんです。庭の草まで食べたという者もいます。ただし、若い将校はしっかりしていました。感心したのを覚えています。
捕虜の間におびえた表情はあまりなかったと思います。兵隊と捕虜が手まねで話をしていた記憶があります。出発は昼間だったが、わずか数キロのところを何時間もかかりました。とにかく、江岸に終結したのは夜でした。その時、私はふと怖くなってきたのを今でも覚えています。向こうは素手といえども十倍以上の人数です。そのまま向かって来られたら、こちらが全滅です。とにかく、舟がなかなか来ない。考えてみれば、わずかな舟でこれだけの人数を運ぶというのは、はじめから不可能だったかもしれません。捕虜の方でも不安な感じがしたのでしょう。突然、どこからか、ワッとトキの声が上がった。日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる。それを合図のようにして、あとはもう大混乱です。一挙にわれわれに向かってワッと押しよせて来た感じでした。殺された者、逃げたもの、水に飛び込んだ者、舟でこぎ出す者もあったでしょう。なにしろ、真暗闇です。機銃は気狂いのようにウナリ続けました。
※指揮官がいないというのは、国際法上捕虜の資格がないことを示す。
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