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本日、10月25日、石原都知事が辞任し、新党結成をするらしい。
石原都知事が国政に出るのに反対ではありませんが、何よりも、本日の辞任会見で尖閣への国民の義援金についてきちんと触れないのはいかがなものでしょうか。国有化したらいいという問題ではないと思います。はっきりと“国民の志”をどうするのかだけは口にして辞任すべきではないか、それが国民に対するけじめでもあると思うのです。この話はここまで。
さて、今から68年前の10月25日は何の日だったのでしょうか?
連日、景気のよい『軍艦マーチ』がラジオの大本営発表として流れていたのが、『海ゆかば』も流れるようになりました。
そうです、この日、神風特別攻撃隊・敷島隊が初の特攻で敵艦を撃沈した日であります。
昭和19年10月20日神風特別攻撃隊第一陣は敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊をもって編成。指揮官は海軍大尉関行男であった。
攻撃隊18機(うち半数は直掩隊)は10月25日出撃し、6機は護衛空母に命中。
3機は至近弾となって敵艦を損傷した。
中でも関行男大尉は敵の護衛空母セント・ロー(1万400屯)に命中、
同艦は火薬庫の誘爆を起し、艦体は二つに折れて轟沈するという偉功を奏した。
(楢本神社・関行男慰霊之碑【碑文】より抜粋)
特攻隊の善し悪しというのは意見の分かれるところでありましょう。
しかし、特攻隊の勇ましさは戦後も「歴史の記憶」として残っていた、ということを中西輝政氏の著書より引用させて頂きます。
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戦後六十余年、中国や北朝鮮、ロシアといった「危ない国々」を隣人に持つにもかかわらず、日本が一度も攻め入られなかったのは、なぜでしょうか。
こういう議論になると、必ず「憲法九条のおかげだ」「いや、日米安保のおかげだ」という二元論になるのですが、実は全く別のところに、おそらくはもっと大きな理由があります。
戦後六十余年、日本が平和であり続けたのは、ひと言で言えば、「神風特攻隊」のおかげです。
原爆で本土に潰滅的な被害を受けた日本は戦争に負けました。通常、敗戦国は戦勝国に弱者とみなされ、見くびられ、後世にわたってつけ入られることになるのですが、日本の場合は、戦後も長い間、事情は違いました。
スターリン、毛沢東、金日成。日本を取り囲む国の独裁者たちは、おしなべて戦中世代です。彼らにとっては、日本が原爆でひどい被害を受けたことよりも、無敵のアメリカ空母めがけて、神風特攻隊が決死の攻撃を繰り返したことの方が、鮮烈に記憶に残っています。「日本恐るべし」ということが、体感として染みついているのです。
戦後の日本は、実際にはGHQにほぼ骨抜きにされ、国家として大きく弱体化しました。しかし、彼らは、あまりにも特攻隊の記憶が強すぎて、日本の弱体化をそのままの姿として受け止められなかったのでしょう。いまはおとなしくしているが、日本はいずれ恐ろしい敵になるかもしれない、と思っていたのです。
たしかに日本国内では「憲法九条」を掲げて「もう戦争はしない」と宣言し、「外国が攻めてきたら白旗を揚げろ」と公言する政治家までいる。しかしその一方で、靖国神社では毎年大々的な祭りが行われ、天皇陛下や首相をはじめ、参拝する日本の指導者や政治家も少なくない。
中国、北朝鮮、ロシアからすれば、だから、まだまだ恐ろしさを秘めた国と思い、日本には慎重に対応し続けたのです。
「今は静かにしているが、こちらの出方次第では何をするかわからない。寝た子を起こすようなまねはやめよう」
こうして彼らは、警戒意識をもって戦後日本を遠巻きに眺め続けたのです。これこそが、戦後六十年余りも、日本がどの国からも攻め込まれなかった一番の要因と見るべきでしょう。
現に、毛沢東や金日成、スターリンやブレジネフも、第二次世界大戦当時の日本軍を詳しく研究しています。
いまの北朝鮮の軍隊は、行進の仕方、号令のかけ方など、表面はロシアの軍隊をモデルとしているように見えますが、大本は日本の軍隊です。金日成は、配下の者に「かつての日本軍のような教育をせよ」と言って、自国の軍隊を再教育させたと言います。
毛沢東も日本軍の戦意や組織を高く評価していましたが、うまくそれを利用しました。戦中は、日本軍の影を感じるやいなや、一目散に逃げまわって、蒋介石の国民政府の方へ日本軍をぶつけるように仕向けました。そうして、対立する蒋介石の力を殺ごうとしたのです。
また、戦後、毛沢東は党主席直轄に「情報調査分析局」というインテリジェンスの組織をつくり、徹底的に日本軍を研究しました。単なる研究から「いかにして日本軍のような強い軍隊をつくるか」にまで論考を進め、今日の中国軍を育てようとしました。
毛沢東が、古くはチェ・ゲバラ、最近ではアルカイダなどが熱心に読むようなゲリラ戦の古典的著作を仕上げたのも、日本軍に勝つには「これしかない」と思っていたからでした。
さらにソ連は、日本が原爆攻撃を受けてから日ソ不可侵条約を破り、満州や日本に攻め込みました。この裏切り行為が、日本が徹底的につぶされた後に行われたということ自体、スターリンがどれほど日本軍に恐れをなしていたかの表れといえるでしょう。
ことほどさように、これらの独裁者たちはみな、日本をひどく恐れていたのです。
アメリカが、戦後日本をせっせと経済大国に育てたのも、日本がもう一度、強い軍隊を持つことを何より恐れたからです。
ところが、各国の政治リーダーたちの世代交代が完了してしまえば、「日本恐るべし」の記憶がもたらしてくれた効力も消えることでしょう。今日、各国が日本を完全に舐め出したのは、このことも大きく関わっているのです。
しかし、「何千という飛行機がアメリカの空母めがけて突っ込んだ」という歴史的記憶が、実に六十年余りも影響したことは注目に値します。つまり、「歴史の記憶」というのは、実はその後の現実に対し、長く予想を超えた大きな影響を及ぼすことがある、ということです。歴史はただの過去のことではないのです。
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