拙稿、「日本人とは」でも述べていますが、武士は侍とも書きます。もののふともいいます。
またその語源は天孫降臨された皇祖ニニギノミコトより前に天孫降臨されたとされるニギハヤヒミコトを祖とし、大和朝廷では国の軍事氏族として活躍した、物部氏(もののべうじ)とされてます。
侍=その文字が示すとおり、もともと高貴な人に侍り、その身辺警護が仕事でした。役目柄、要人より華美な振る舞いは許されず、常に死を覚悟していなければなりませんでした。このことが質実剛健な精神構造を生み出し、支配階級となったあとも、「武士道」として武家社会の規範になっていきます。
武士という階級が為政者として台頭してきたのは、平安時代の後期、現在NHK大河ドラマの主人公「平清盛」が最初とされています。
12世紀末には、源頼朝が鎌倉に幕府を開きました。この時から約700年間、わが国では武士が政権を担う時代が続きました。戦士の階級が国を治めるという歴史は、シナや朝鮮には見られない、わが国独特のものです。それゆえに、この数世紀の間に武士が創りあげた生き方や価値観は、日本独自の思想といえます。それが、武士道です。
世界的にも類を見ない日本の武士の特徴を考えると、まず源氏が清和天皇を、平氏が桓武天皇を祖とするように、由緒ある武士は、皇室を祖先にもっています。皇室から分かれた貴族が、京の都を離れて地方の役職を任命され、そこで軍人として働くようになったのが、武士の由来です。それゆえ、源平の時代から徳川幕府最後の征夷大将軍徳川慶喜公まで、武士は天皇陛下に権威を感じ、それを侵すことなく、逆に自分の権力の拠り所として仰いできました。本来、皇室から分かれた貴族の出身であるところに、武士の第一の特徴があります。
武家政権の祖とされる、平氏・源氏の2つの氏族は、前にも述べていますが、どちらも天皇の後裔(こうえい)でした。だが、一度皇籍を離れ、臣下となった以上は、国全体の支配者にはなっても、天皇になることはできなかった。この原則は殆どの場合どの政権にも遵守されました。平清盛は平安末期の日本の権力者であり、白河天皇の落胤と目されていました。しかし、平氏の一員に迎えられて臣下となったため、不適格者となっており、あえて皇位を手に入れようとはしなかった。
戦国大名も、天皇の王朝に取って代わるなどという発想を度外視しただけでなく、天皇の王朝に皹を入れることも避けようとした。天皇のお墨付きを欲してやまない戦国大名は、誰もがそれぞれの天皇志望者を押し立てて皇統に亀裂を生じさせても全く不思議でなかったが、そのようなことはしなかった。朝廷の官位官職を手に入れようと、互いに張り合うようになった。修理大夫や衛門佐といった大いなる威厳を意味するこれらの官職は、天皇だけが授けうるものだったのです。
戦国大名も、天皇の王朝に取って代わるなどという発想を度外視しただけでなく、天皇の王朝に皹を入れることも避けようとした。天皇のお墨付きを欲してやまない戦国大名は、誰もがそれぞれの天皇志望者を押し立てて皇統に亀裂を生じさせても全く不思議でなかったが、そのようなことはしなかった。朝廷の官位官職を手に入れようと、互いに張り合うようになった。修理大夫や衛門佐といった大いなる威厳を意味するこれらの官職は、天皇だけが授けうるものだったのです。
室町幕府の第3代将軍・足利義満は、天皇に取って代わって自分の王朝を開こうとした唯一の人物です。
強引な権力者となり、支配を国中に及ぼし、南北朝時代に幕を閉じた。将軍職を退いても太政大臣となり、国政を続、生母を亡くした後小松天皇の母代わりとして、皇族出身でない自分の妻の日野康子を「准母(じゅんぼ)」に指名したり、こうして、義満は天皇の継父に相当することとなり、死後「太上法皇(出家した太上天皇の尊称)」と呼ばれることができる資格を手に入れました。
応永8年、明国と国交を樹立し、明の皇帝から「日本国王」の称号を受領しましたた。これにより、征夷大将軍の地位にある人物が皇位に最も近づきました。しかし、応永15年の義満の死に、義満の野望は潰えました。後継者の誰一人として義満の野望を繰り返そうとはしませんでした。
義満の野望を妨げたのは、天皇でも征夷大将軍でもなく「ありえないことだ」という強力な暗黙の合意があったことです。
天皇は神々に位(神階)を、神社に格(社格)を付与し、高位の僧職者に位階と称号(僧位)を授与していた。将軍や国土にも、その健勝と繁栄を祈る存在であったのです。天皇は死者を神格化でき、また神格を取り消すことができる存在であったのです。
徳川家康は後水尾天皇に、豊臣秀吉が死後与えられていた神格を取り消すよう要望し、翌年、家康自身が死ぬと、天皇は彼の生前の要望を受け容れて、家康を神格化しました。家康が東照宮に、秀吉が豊国神社に祀られているのも、天皇陛下の存在なしにはありえないことなのです。
これらは王朝の簒奪を繰り返してきた世界各国のどこの国にもありえないことであり、自分の権力・精神の拠り所として仰いできました。
昨今論じられている、皇統、女性宮家が臣下によって論じられることなどありえないことでした。
これらは王朝の簒奪を繰り返してきた世界各国のどこの国にもありえないことであり、自分の権力・精神の拠り所として仰いできました。
昨今論じられている、皇統、女性宮家が臣下によって論じられることなどありえないことでした。
武士はまた、土地に密着した為政者であることです。平安時代後期、辺境の防衛に当たった武士たちは、年月を経るうちに、その土地に定着し、自ら土地を開墾して、私営の田畑を営むようになりました。こうして開墾領主となった武士は、「一所懸命」に領地を守り、広げ、受け継ぎ、競合しながら、巨大な集団へと成長していきました。やがて、武士は、土地と領民を所有する為政者となりました。そして、皇室の伝統と、儒教の政治道徳に学んで、領地・領国の経営に努めたのです。
皇室から分かれた貴族の出身、戦闘のプロフェッショナル、土地に密着した為政者―――は、それぞれ尊皇・尚武・仁政という徳目に対応します。
こうした特徴と徳目をもつ武士たちは、平安後期から鎌倉・室町・戦国の時代を通じて、独自の倫理と美意識を生み出しました。江戸時代に入って、それが一層、自覚的に表現されることになりました。これが、今日いうところの武士道です。
わが国は江戸時代に、徳川家康が朱子学を幕府の教学としました。武士達は、外来の儒教を単に摂取するだけでなく、これを孔孟に戻って掘り下げて研究し、同時にこれに日本独自の解釈を加えました。武士道は、この日本化した儒教を中心に、理論化・体系化がなされ、江戸時代には幕藩体制の下、平和な秩序が確立され、戦闘者としての武士の役割は、無用のものとなりました。それゆえ、武士たちは、自己の存在意義を問い、武士のあるべき姿を強く意識するようになりました。武士道が思想として錬成されたのは、そうした背景があったからです。
冒頭に書いたように、武士道は、日本固有の思想であり、日本人の精神的特徴がよく表れています。わが国は古来、敬神崇祖、忠孝一本の国柄です。そこに形成されたのが、親子一体、夫婦一体、国家と国民が一体の日本精神です。日本精神の特徴は、武士道において、皇室への尊崇、主君への忠誠、親や先祖への孝養、家族的団結などとして表れています。そして、勇気、仁愛、礼節、誠実、克己等の徳性は、武士という階級を通じて、見事に開花し、向上しました。日本精神は、約700年の武士の時代に、武士道の発展を通じて、豊かに成長・成熟したのです。
明治維新は、武士道の発揮によって成し遂げられました。近代国家の建設の中で、身分としての武士は武士自らが幕を降ろしました。しかし、国民国家の形成を通じて、武士道は国民全体の道徳となりました。大東亜戦争後、武士道は、失われつつありますが、今なお日本精神の精華として、日本人の精神的指針たるべきものであり続け、今日も武士道の精神の復活が望まれているのです。
次回は武士道とは何かを考察してみたいと思います。
続く・・・