靖国神社の桜(神門付近)
御来訪感謝申し上げます。
昨日は、戦後日本が高度成長を経て世界トップクラスの経済大国にのしあがった頃から頻繁に行なわれるようになった、いわゆる戦後補償に関する訴訟裁判(=反日恐喝訴訟)の背景について取り上げました。
その中で自民党衆議院議員で弁護士でもある稲田朋美氏の「日本の国には国の名誉日本人の名誉を守る機関がない」が無いと文言が出て来ました。
つまり、反日左翼と乞食根性の中韓がグルになって戦後日本は一方的に貶められ、謂れ無き歴史的な糾弾を受けて来たにもかかわらず、何ら有効な反論することもせずに虚構を事実として押し付けられて来ただけであった、ということであります。
不肖敬天愛人は、国の名誉・日本人の名誉を守る『機関』がないというよりも、むしろ、日本人及び日本政府が名誉を守ることを自ら放棄して来た結果ではないかと思っています。じゃあ、その背景の根っ子にあるものは何かといえば靖国問題に帰すると考えています。奇しくも今から4年前の平成18年6月3日に稲田朋美氏自身が産経新聞の【正論】にこの本質を的確に突いた論説を寄稿しています。
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自民党衆議院議員稲田朋美氏の平成18年6月3日付け産経新聞【正論】への寄稿から
■首相の靖国参拝は安全保障問題
本質見極め矮小化した議論排せ
◇侵略に屈せずの意思表明
首相の靖国参拝について、その是非がしばしば論じられるが、何のためかという視点を欠いている。国の代表が、国難に殉じた人々に感謝と敬意の祈りを捧(ささ)げなければならないことは今更論ずるまでもない。重要なのは、この問題が我が国の安全保障、ひいては国としての存立にかかわる問題だという点である。国益を論ずるのであれば、まず「国」でなければならない。
昔も今も国際紛争を最終的に解決する手段は、不幸なことではあるが物理力である。平和憲法を有するわが国についても例外ではない。もし仮に、他国がわが国に攻め入ってきたら、武力を行使して自国を防衛することは憲法第9条の下でも当然に許されている。
この厳然たる事実を受け入れることが首相の靖国参拝を論ずる前提である。国のために命を捧げた人々が感謝も敬意も払われず、まるで犬死にのように扱われ、または忘れ去られるようでは、一体誰が国のために血を流して戦うのかという問題なのである。
靖国参拝に反対する政治家、財界人はもっともらしい理屈をさまざま挙げてはいるが、要は、たとえ他国に攻め込まれても血を流してまで国を守る覚悟はないし、ともかく中国を刺激してはならないと主張しているに等しい。
小泉首相は就任以来、毎年欠かさずに靖国神社に参拝してきた。これは総理個人の内心がどうあれ、他国の侵略に対してわが国は、血を流してでも守る覚悟であることを内外に表明することである。
首相が靖国に参拝することの意味は「不戦の誓い」だけではない。「他国の侵略には屈しない」「祖国が危機に直面すれば後に続く」という意志の表明であり、日本が本当の意味での国であることの表明なのである。この点に触れずに、靖国問題を政教分離や対アジア外交の問題に矮小(わいしょう)化することは、戦後体制の歪みそのものである。
◇単純にすぎる戦争責任論
首相の靖国参拝に関連して民主党の小沢代表は、自分たちが政権をとれば、いわゆるA級戦犯を霊璽(れいじ)簿から抹消するとの暴論を展開している。その小沢氏が党首討論で「占領政策」「戦後体制」による歪みを指摘するのは自己矛盾である。A級戦犯の正当性(正しくは不当性)の源である東京裁判は、まさしく、「占領政策」「戦後体制」の中心であり、東京裁判史観の克服なしに戦後体制のゆがみを是正することはできないからだ。
いうまでもなく、東京裁判はポツダム宣言と近代法の大原則(罪刑法定主義)に違反した二重の意味での国際法違反である。その不当性は、たとえサンフランシスコ平和条約で「受諾」しても減殺されるものではない。当時の成人日本人の圧倒的多数が東京裁判の不当性を認識していたことは、日弁連が中心となって展開した戦犯釈放署名運動に4000万人の国民が署名したことからもうかがえる。
だとすると、なぜ今さらこの不当きわまりない東京裁判で裁かれたA級戦犯について、同じ日本人がその戦争責任(人によれば敗戦責任)を糾弾し、墓を暴くようなまねをするのか。A級戦犯がいたから日本が無謀な戦争に突入し、そして敗れたというような単純なものではない。無数の偶然と必然、そして歴史の大きな流れの中で日本は戦争に突入し、未曾有(みぞう)の敗戦という悲劇を迎えたのであって、その責任をA級戦犯だけに帰すことはできない。ましてうち7人は自らの命でその責任をとっているのである。
◇本当の国になるかの問題
A級戦犯合祀(ごうし)と昭和天皇の参拝中止の間に因果関係がないことも、この際指摘しておく必要がある。
昭和天皇が昭和50年11月21日を最後に参拝を中止されたのは、その年の8月15日に参拝した三木首相が「私的参拝」と奇妙な言い訳をしたことに始まる。
「公的か私的か」の不毛な議論が沸き上がり、昭和天皇が参拝された前日の国会(参議院内閣委員会)で社会党の議員が昭和天皇の参拝の憲法問題を指摘し、激しいやりとりがなされたからである。
A級戦犯を分祀(ぶんし)すれば天皇陛下の御親拝が実現するなどというウソにだまされてはならない。このウソは、靖国神社が分祀できないことを知った上で、難きを強いて首相の靖国参拝を阻止したい勢力の戦略にすぎないのだ。
靖国問題の本質は歴史認識でも政教分離でもアジア外交でもない。日本が戦後体制なかで今後も「国ごっこ」を続けるのか、それとも本当の「国」に生まれ変わるのかという問題であり、ここに議論の意味があるのである。
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名誉を守るとは、毅然と相手に対して反論し喝破することであります。それには反論できる論理的根拠が絶対に不可欠です。
日本国及び日本人の根拠とは「東京裁判史観の克服」無くして獲得することは出来ますまい。なぜなら、稲田氏が指摘するように東京裁判史観の支配下にある限り、日本は「国」ではないということです。
国でない、国もどきあるいは「国ごっこ」をしている日本に名誉が存在するはずも無く、すなわち国として守るべき名誉も持たない異常な“国家”が今の日本のまごうかたなき現実であると指摘しているのです。
したがって、靖国問題が現代日本人に根本からかかわって来るものであり、この問題を解決する(靖国の国家護持)こと=東京裁判史観の克服が戦後体制の歪みや矛盾から脱却する唯一の方法であり、絶対に逃げてはいけない事なのです。
この問題について議論という名の“先送り”を続ける限り、さまざまな戦後補償問題も含めた日本への毀損行為を防御することはできないのです。
日本が今、世界に類例のない異常国家になってしまっている根源の原因こそ、不当な東京裁判を受け入れたまま現代に至ってしまったことにあると考えます。
つまり、戦後の日本人は自分たちの問題を自分たちで解決すること(現実)から逃避したままに徒に時を過ごして来ただけなのです。その結果、戦後体制の歪みや矛盾が大きくなるばかりで、ついには自らでは解決不能の状況にまで追い詰められているのが現在の姿であることは否定できないのです。その歪みや矛盾を体現したのが“政権交代”という幻想でしかなかった民主連立左翼亡国政権を誕生させたことです。
自虐史観しかり近隣諸国条項しかり、村山談話・河野談話、強制連行、従軍慰安婦等々すべての諸問題を引き起こしている根元の病巣は東京裁判史観なのです。
日本が本当の国に生まれ変わるのも、国や日本人の名誉を語れるようになるのにも、靖国神社の名誉が回復しない限り不可能なのです。
本質論として、国と日本人の名誉を回復するには靖国の名誉回復が切っても切り離せない事実なのです。
いつまでも英霊や先人は待ってはくれないでしょう。英霊が業を煮やせば、その先にあるものは亡国しかありません。
日本が普通の国になるには靖国神社の名誉回復が大前提なのです!!
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