乃木大将は明治天皇に忠誠を尽くす心が格段に高い方でした。
7月30日に明治天皇がお隠れになり、9月13日に御大喪が行われました。
その40数日間は皇族や政府高官など選ばれた方々が交代でお通夜申し上げましたが、乃木大将は朝・晩2回の通夜をその間1日も欠かされませんでした。2、3回お通夜申し上げたという人はいても、朝・晩2回の通夜を1日も欠かさない人は乃木大将だけでした。それほど明治天皇に対するお気持ちが強かったのです。
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乃木大将は桂太郎首相とそりが合わないこともあり、4度も休職されますが、すぐに復職させたのは明治天皇の勅命でした。日露戦争で第三軍の司令官に任命されたのもそうです。
旅順がなかなか陥落せずに「乃木を辞めさせろ」という声があがった時に、元老の山県有朋はやむを得ず自分の部下である乃木大将を更迭しようとしました。それを「乃木を変えてはならん」とお止になったのは明治天皇でした。
乃木大将は明治39年1月14日に凱旋し、明治天皇に復命書を奏上されました。
「我が将卒の常に強敵と健闘し、忠勇義烈死を視ること帰するが如く、
弾たおれ、剣にたおるるもの皆、陛下の万歳を喚呼し欣然と瞑目したるは、
臣これを伏奏せざらんと欲するも能はず」
涙声とともに下る復命書をお聞きになった明治天皇は「これは自決するな」とお察しになり、
「朕が死ぬまで死んではいかん」とおさとしになりました。
そして、学習院長を勅命され、御孫の昭和天皇をお預けになりました。
乃木大将の静子夫人にもこのようなお話があります。
明治42年、旅順白玉山の慰霊祭に乃木大将ご夫妻が参列されました。
ここでは大変多くの部下を失いました。
乃木大将は祭文を奏上されました。
この祭文は通常は副官が書くものですが、乃木大将は全て自分で書かれました。
その時、静子夫人は遺族席の末席で目立たないように参列されていました。
やはり公私のけじめで将軍夫人、第三軍司令官の奥様としてではなく二人の息子を亡くした遺族として参列されたのです。その後、ご子息が亡くなられた場所に赴き、ビールを献酒され、夫人はこう言われました。
「息子二人の慰霊が終わったら心がすっきりした」
二人のわが子を亡くしてどうしてそんなにすっきり出来るのかと聞くと、
「公を立てれば私ならず。私を立てれば公ならず。 人生とはそういうものです」
息子二人を日露戦争で亡くしたにもかかわらず静子夫人は毅然とした方だったのです。
乃木大将の静子夫人との最後の別れの杯は明治天皇から頂いた葡萄酒でした。
乃木大将は最後の殉死に至るまで明治天皇への「忠」に徹した人生でした。
乃木大将の辞世はこのように詠まれました。
神あがり あがりましぬる大君の みあとはるかに をろがみまつる
うつし世を 神さりましし大君の みあとしたひて 我はゆくなり
乃木大将が学習院長として最後のお別れの講義を小学生にされたときに、
乃木大将は「日本はどこにある?」と生徒に質問されました。
3、4人が「東洋の東側」「緯度何度」といった地理的な返事をしたのを聞かれて、
乃木大将は「それぞれに間違いはない」、
そして、自分の胸を叩いて「本当はここにあるんだよ」
とおっしゃって、静かに壇上を降りて学習院を去って行かれたといいます。
後日、小学生の意見が新聞に紹介されました。
「西郷隆盛も武士、大久保利通も武士である。しかし乃木大将はその上の武士である」
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